真を写せば
●藤原新也『メメント・モリ』(情報センター出版局)を観了。
「むかしむかし、そのむかし、ニッポンはアジアのくにでありました。」(「紅棘」P126より)
いかにも清く、正しく、美しく、油断すれば背景にそっと忍び込もうとする不敵な「毒」を躍起に成って排除する。ミジンコ大の負の細菌さえ、憑かれた様に滅菌することに必死で、例えばスマイル、例えば無垢に過ぎる子ら、例えば集中治療室な大自然。
写真って何だろうね。
指の脂にも一瞬で感染する位の脆弱な、下半身の心許ないLOVE&PEACEばっか、己の特技・趣味の無さをベタベタなアングルよりカシャッ、あるいはちょっとイケてるストリート・ファッション、ねぇねぇ、ちょっと、スクランブル交差点のど真ん中で目的も思想も不携行のままに連写してるそこのボク、アジアン・テイストな麻などまとっちゃってー、別にどうでもいいけど、カメラはアンクレットじゃ無いよ、ピアスでも香水でも無いですよ、こちらをうならせてよ、現実を修辞しなくたっていいじゃない、現実はそのままで虚構だよ、奇麗な涙、麗しい花々に宿るもの、その宿るがままの目ヤニ、手折られたまま無残にへしゃげた茎だって。
真昼のバドミントン
●荒木経惟『東京物語』(平凡社)を観了。
氏の写真は、被写体が何であれ、いつも淫らでセンチメンタルだ。ただ、「物語」だけは掴んで放さない。
夜勤明け、重い身体を引き摺りながらの帰路、ある光景を目にした。
小2くらいの幼女と小5くらいの少女が二人一組になって、車の往来少ない道路でバドミントンをしていた。
このバドミントンが、それにしても続かない。
サーブ加減が決まって、強すぎるか弱すぎるかして、頭上をかすめて後方にポトリ。あるいは、両者の中間にポトリする。だからこのバドミントンにおいて、レシーバーの存在は存在だけであって、いや、相対性を考慮に入れるならば「レシーバー」は悲しくも「傍観者」と等価だ。
ここまでは、頑張って良しとする。技術力の乏しいサーバーのいるバドミントンではよくある光景だから。
しかし、図らずも「傍観者」と成り下がってしまったレシーバーが毎度毎度、サーバーに低声で罵声を浴びせ掛けるとなったら、事態は勢い非日常化するだろう。
「馬鹿」「何してんの」「下手くそ」
永遠と繰り返される、軽蔑と復讐の声。
青空の下、果てしなくも悩ましいバドミントンの横を通り過ぎた時、この無上の「虚しさ」に思わず熱く惚れたのだった。


