幸甚かも知らん
●俵万智『サラダ記念日』(河出書房新社)を読了。
「生ビール買い求めいる君の手をふと見るそしてつくづくと見る」(P15より)
「我だけを想う男のつまらなさ知りつつ君にそれを望めり」(P37より)
「母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる」(P38より)
「二時間でシンデレラとなる吾を前に核戦争の話などする」(P53より)
「君の待つ新宿までを揺られおり小田急線は我が絹の道」(P80より)
「誰を待つ何を吾は待つ<待つ>という言葉すっくと自動詞になる」(P118より)
「「おやすみ」をあなたに言ってもう今日は鳴らなくていい電話と思う」(P167より)
何首も何首も紹介したい。この歌がああだ、あの歌はこうだ、と地酒片手に夜っぴて語り明かしたい。「俵万智」が俵万智になった気分。括弧が取っ払われて、ぐんと近しい飲み友達になったような。
風祭は「千世倭樓」、合掌造りの離れにて会席料理。なんて贅沢な空間の占拠。婚儀の一環と言えば一環。雅趣に富み過ぎだろ。地ビール旨過ぎだろ。
国交省に出向中のK野さん、湯河原の兄貴M嶽さんへテル。よりによって思えばバレンタインに野郎等へテル。でも自分へのプレゼントのような懐かしさ。いや、ちょっと言い過ぎかしら。早く会いたい。
母の口から「辺見庸」とは。事の経緯を訊くと「かなり昔にファッション雑誌か何かに出ててあの無頼風情に惚れたのよ」「こないだのETV特集観てやっぱり凄い人だなと思って本を買おうと思ったらお前の本棚にあったから今読んでるの」。へえー。机上には『眼の探索』(朝日新聞社)。せいぜい彼の美文に溺れればよい。
富士山のシルエットが朧に浮き上がってて夕刻の空が深青。ぽつんと星一点。
幸せ過ぎて「起きるな俺」と夢でも無いのに念じてた。
平民の休息
●吉本隆明著『詩の力』(新潮文庫)を読了。
「ところが、読んでいて、どれか一つの言葉が、一つの暗喩として心にひっかかると、それが入り口になって、一気に詩の核心にまで連れていかれる。読者も人間の心の奥底にまで降りていくことになる。」(P149より)
この文は詩人吉岡実の項に宛てられたものだが、一つの詩との出会いに関する普遍的な様態として読むことが出来る。
実家へ朝帰りをする。
Y崎氏、M山女史と途中、河岸を変えながらの飲み。会社の同僚でありながら、会社・仕事以外の事象について談論出来るのはこの二名くらいか。話題はあっちへ飛び、こっちへ飛んだ。あっちへも、こっちへも行ける翼をお持ちである。あっちへ、こっちへ行くうちに、宙が白んだという訳。
起床しM本家眷属と夢庵へ。帰宅し久保田を流しこむ。IK氏へ電話すると二週連続で実家へ戻って来ており将来につき家族と凝議しているとのこと。今が正念場。ESPRIT DE MARYのチョコを久保田の肴にするも合わぬ。母はルンルンで明日のカレーを仕込んでいる。この土日も分際をわきまえた私は平民としての休暇を楽しんでいます。
タコ粘りするもハマってしまって
●吉原清児著『がん医療の選び方』(講談社現代新書)を読了。
「私は、この国の医療には「三人の主役」がいるのではないかと思うことがある。患者と医者、そして役人だ。いや、その役人を操る政治家をもひっくるめて三番目の主役とみるべきかもしれない。いずれにせよ、医療の構図で言えば、すべての患者は「治りたい」「命を助けてほしい」と願い、心ある医師は「力を尽くして命を助けたい」と考えるものである。これに対して、あくまでも国民本位の立場から、時代に即した政策を練り上げるのは政治家と役人の役割だろう。」(P162より)
改めて考えれば至極当然な医療の構図だが、改めて考え直さなければならないほどに、このトライアングルは瓦解している。いつの日かがんになる私にとって、この本は多少専門的なくだりも含めて大変勉強になった。
渋谷は「神座」にてラーメン。ジャグラーやるもバケすら来ない。ハナハナやるも小役すら来ない。シーサーだって不動明王。来ぬる日は来ぬ。ペカらぬ日はペカらぬ。人生と近似。
眼鏡かコンタクトか
●東京大学株式投資クラブAgents著『東大生が書いたやさしい株の教科書』(インデックス・コミュニケーションズ)を読了。
分かり易い。理論株式の第一歩目。いちいち挟まれるギャグがまた真面目な東大生を浮き彫りにしていて微笑ましい。
初対面のO君とTさんと池袋は「紅とん」で飲み「無敵屋」に流れてラーメンをずるずるすする。
再び眼鏡からコンタクトにする。また3年後くらいに眼鏡に戻り、6年後はコンタクトかしら。3年の等差で変更していったとして、俺の死に目、希代のハープ奏者として主にヨーロッパを舞台に輝かしい活躍をしているであろう美貌の長女と、事業ポートフォリオに就いてのエポック・メイキングな論文で世界にその名を轟かせているであろうM大教授の長男が、それぞれドイツとイギリスから駆け付けた正にその時、果たして俺は眼鏡だろうか、あるいはコンタクトだろうか。
今年も採血
●中沢新一著『はじまりのレーニン』(岩波書店)を読了。
「レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考の中にまだ組み入れられていない領域に、直接に触れている。」(P7より)
地の底から湧き上がって来るような笑いを笑うレーニンに唯物論的実践の原型を見、ヘーゲル、ベーメ思想、グノーシス主義にもうひとつの哲学史の傍流を見出そうとする奇異ではあるが、とにかく面白い研究。
採血をした。いや、採血をされた。やっちゃえば一瞬なのだが、その一瞬へのおぞましさに毎年懊悩を強いられる。いい年して、男のくせに、巨漢の割に、なんと小さき心の持ち主なのであろうか、情けない。いい加減そろそろ慣れろ。虫けら。犬畜生。馬鹿。死ね。
乞食集きて
●三崎亜記著『となり町戦争』(集英社)を読了。
メッセージ性の高い小説にありがちな物語の犠牲、物語性の高い小説にありがちなメッセージ性の乏しさ。この小説はそのどちらにも陥ることなく、どちらも可なり高い位相をキープ出来ている。
第17回小説すばる新人賞受賞作。
中学の頃同じクラスだったGという女が激太りと激老けを晒して乞食のようなおっさんと一緒にアイスコーヒーを仲睦まじく飲んでいた光景が余りにもショッキングで茫然自失ながらも何とか僕も自分のアメリカンを口に運んでいたところ、高校の頃同じ学年だった名は知らぬ男が激太りと激禿げを晒して乞食のようなファッションで携帯いじくりながら時折ニヤつきアイスココアを飲みに来た。更なる乞食の入店に怯え一散に退店した。
ドック!
●森岡孝二著『働きすぎの時代』(岩波新書)を読了。
「三〇年以上前に発効したILO一三二号条約では、病欠は年休に含めてはならず、休暇は最低三週間以上、うち最低二週間は連続休暇でなければならないとされている。しかし、日本ではこれに対応する国内法が整備されていないために、この条約をいまだに批准できないでいる。」(P153~154より)
TGとUYと小田原は気になっていた「だいご」本店・もつ店にて呑み喰い。市街へ戻りハシゴ酒。「残波」ばっか呑むUとは久しぶり、弾んだ。Gとの会話はいつも落ち着く。夢は膨らむ、否、膨らます。
怯え嫌がり続けて来た母を、言葉の暴力を以って半ば強制的に行かせた人間ドックの詳細を聞く。「内臓ぜんぶよ、内臓ぜんぶ」と言う哀しいかな醜いメタボマザーの直腸指診をおこなったドクターに憐憫の情を禁じ得ない。
災難の事

●青木雄二著『銭道‐入門編』(小学館文庫)を読了。
●青木雄二著『だまされたらあかん‐保険の裏カラクリ』(徳間文庫)を読了。
「CMには「え、ほんまか。それなら気軽に入れる」「終身保険ならええやん」と思わせる演出がされとる。それはイメージを売っとんのやから、当たり前や。けどな、最初に言うた通り、自分の安心を自分で守るために入るのが保険というものです。そして保険会社は利益を追求している組織なわけです。入る側が冷静に吟味して選ばなければいかんのです。あの程度のCM見て、そわそわしだすようでは修行が足りん。保険会社はそんな甘くないで。」(後者P84より)
「保険」を日本に紹介したとされる福沢諭吉の『西洋旅案内』によると、そもそもその謂いは「災難請合の事」であった。さてこれを踏まえて現代の「保険」に視座を移して見るとどうであろうか。湧水の如く溢れる不祥事の汚水。福沢諭吉による語義から「請合」という語がすっぽり欠落していてもそっくり意味は通じはしないか。約140年でハラハラと風解した「請合」が保険の本源だとするならば、この風解こそが保険制度一般に於ける「保険事故」であって外ない。
勝ち克てよ
●筒井康隆著『悪と異端者』(中公文庫)を読了。
昔日。死刑囚であった作家の永山則夫が日本文芸家協会より入会を拒否された一件に抗議して中上健次、柄谷行人と著者の三者が当該協会から脱退するという事件があった。当経緯の真意を求められた著者はエッセーで次のように書いている。
「つまり、何となくキナ臭いから逃げたのである。おれは評論家ではなく作家だから本来はただ「キナ臭いから逃げた」だけでいいのだ。特殊な者を排除し、個性を認めない大政翼賛会的な団体にいるよりは孤立していた方が安全であろうという、これはまあ、臆病者の美学と言ったところか。協会の入会申込書にしても、昔は略歴を一行でも十行でも自由に書けた筈が、今は身許調査書のごとき書式の用紙になっているという。優秀な文学者で精神分裂病になった人は多いが、たとえば単純な妄想がひとつあるだけの文学者が病院内から入会を求めてきたらどうするのか。すぐれた小説を書くエイズ患者が入会を求めてきたらどうするのか。クラブのママを入会させるかどうかでもめた前歴を持つ協会のことだから、これはおそらく拒否するであろう。文学史に残る醜態となる。いかにおれとて自分の名は惜しみたい。「いったいそのとき、どんな作家が会員だったのか」と訊かれたとき、「おれはいなかったよ」と返事したいのである。」(P37~38「おれは逃げた」より)
ナンセンス・不条理・虚無主義の巨匠、筒井康隆という作家がいかにマトモな作家だったかということを証明するものである。
地元の知己と飲む。躁鬱病にかかったという。今は小康状態、もうあんな体験はしたくないと熱燗片手に言った。今はボクシングジムに通い、近々アマチュア戦に出るのだそうだ。チラっと見えた彼の右拳はトレーニングの激しさを雄弁に物語り、赤く腫れ火照っていた。「はじめはボクササイズ感覚でやってたんだけど」と語る彼。27歳でのデビュー戦はボクシングに疎い当方とて、遅すぎるデビューであることは分かる。近々リング上で君の前に立ちはだかるのは病魔の権現に違いない。わずかな隙は先方のストレートを許すに充分だ。君は君自身と戦う。おそらくデビュー戦には立ち会えないと思う。克って欲しい。
賢治君と会う

●宮沢賢治著『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)を読了。
高橋源一郎やら吉本隆明やら天沢退二郎がやたら賢治賢治言うものだから読む。小学生の時、書写の先生に半ば強制的に読まされた「セロ弾きのゴーシュ」以外は初読。そういえばこの書写の先生はよっぽど「セロ弾きのゴーシュ」がお気に入りだったようで、卒業アルバムにゴーシュの絵をコラージュで貼り付けて来たものだった。
谷川徹三編の岩波文庫では同題に「童話集」と冠されている。まぁ童話は童話なのでしょうが、心安いものではなかった(心安い童話というものは、そも無いのかも知れないね)。辛苦と悲哀、存在と孤独、多方面に伸びる愛。読んでは立ち止り、進んでは後戻りしながらの重い旅路だった。なにぶんテクストとして古いので所所読みづらい箇所もあったが大いなるカタルシスごちそうさまでした。
賢治ときたら大したもんだ(「オツベルと象」風)。
かぼちゃの馬車
●今野浩一郎・下田健人著『資格の経済学‐ホワイトカラーの再生シナリオ』(中公新書)を読了。
「資格を取得したからといって、彼らがすぐに会社を辞めるわけでもないし、資格が必ずしも、魅力的な転職先や独立の道を簡単に保障してくれるわけでもない。それにもかかわらず魅力を感じるのは、資格が組織に対する個人の交渉力を担保する役割を、あるいは職業生活の安定を保障する保険の役割をはたす、と期待されているからであろう。」(P13より)
ま、早い話しが、対組織への武装だな。素っ裸の歩兵でひしめく群れに於いては甲冑を纏った兵卒が目立つのは瞭然というもの。そして、どうしたって素っ裸の歩兵よりは勇ましい。
出不精の母が休日に一人でカフェ・レストラン「かぼちゃの馬車」にランチを喰いに行ったというのだから驚き。
狼煙
●玄田有史著『仕事のなかの曖昧な不安‐揺れる若年の現在』(中公文庫)を読了。
「多くの企業は「リストラ」という言葉を背後にちらつかせながら雇用調整を進めている。だが実際には、企業内部の人員整理のむずかしさを反映し、ほとんどの場合、調整は新規採用の抑制を中心に行われている。若い社員の立場から考えると、それはいつまでたっても後輩の社員が入社してこないことを意味する。そのため、業務の末端としての仕事がどんどん増え続ける。何時になっても仕事が終わらない。より高い技能や知識の獲得へ、会社内のステップアップも期待できない。そんな状況のなか、ある日、若者は転職を決意する。」(P18より)
緻密且つ人間味ある「仕事」の論考。サントリー学芸賞、日経・経済図書文化賞受賞。
ひさしぶりに実家へ帰館。暴飲暴食の3日間。ノロシが上がった。
げんなり
●杉田敦著『デモクラシーの論じ方‐論争の政治』(ちくま新書)を読了。
「僕が強調したいのは、同時に複数の単位の構成員であることの重要性だ。自分はA国人だが、Bという大きな単位にも属し、Cという小さな単位にも属している。こういう意識を持ち、それぞれの単位のデモクラシーをいずれも大事にして行かなければ、まともな政治的判断ができるはずがない、ということだ。」(P186「主権国家の相対化へ」のAの発言より)
家で栽培をしている。と言えばなかなか危ない表現に陥るが、育てているのは至極合法なカブとラディッシュ。しかしこれが可なり育てるに難しい。ある程度大きくなったので鉢を一回り大きなものにしたら俄然元気がなくなった。大きくなるにつれ、なまじっか愛情が募ってしまったものだから当方も元気を失くしている。目下、土の所為にしている、季節柄の所為にしている、肥料の所為にしている。
私から西武、西武から私へ
明瞭な発話と分かり易い案内、マニュアルにはゆめゆめ載っていないであろう配慮の言葉、間の良い合図と優しい声音。退勤の西武池袋線で見たあるべき車掌の姿。
その車掌に感激し、どうしても「ありがとう」の気持ちを伝えたかったので「その時」の「その車掌」と解るよう正確な情報を書き込んだ上で西武鉄道にメールを送信した。翌日レスがある。
「平素は西武鉄道をご利用いただきまして誠にありがとうございます。
また、この度は大変心温まるお褒めのお言葉を賜りまして厚く御礼申し上げます。
弊社の係員をお褒めいただきまして誠にありがとうございます。
賜りましたお褒めのお言葉は、係員の大きな励みになりますので、担当部署を通じて申し伝えさせていただきますので、ご了承下さい。
西武グループでは「でかける人を、ほほえむ人へ。」のスローガンのもと、今後ともお客さまに喜ばれる鉄道を目指してまいります。
今後とも何かお気づきのことがございましたら、お知らせいただければ、幸甚に存じます。
これからも西武鉄道をよろしくお願い申し上げます。
西武鉄道お客さまセンター」
感謝のメールに対して一定時間後に自動返信されるようプログラムされているかのような雛形感満々の文言だがそれはまぁいいとして、あの車掌に「担当部署を通じて申し伝」わることを切に信じる。
やっつけ仕事で溜息なのかアナウンスなのか判然としないような車掌ばかりの毎出退勤。しかし中には確かに「いる」のだ。そう思えただけでも嬉しかった。
ALAS
●モブ・ノリオ著『介護入門』(文春文庫)を読了。
文庫版あとがきで著者も触れているように、このような作品が「中央集権的な制度によって守られている文学という経路を通じて、日本を代表する極右出版局から印刷されることの方がずっと重要なのだ」。
第98回文學界新人賞、第131回芥川賞受賞。
このノートパソコン(NECのLaVie L)をかれこれ6‐7年使用している。しかしながら不具合など全然無く至って状態は良好だ、なんて言ってみたいが実態は衰耗仕切って動作はこれでもかという程に鈍い。ウイルス駆除等一切して来なかったが為に10分も使えばキーボードは発熱し異音を発しうんうんとうなされている。いつだったかマウスもチーズ求めて逃げてしまったし、「CAMEL」や「BEAMS T」のステッカーをボディに貼付け老躯のくせに過日お洒落もした。個体個体で差異はあろうし一概に耐用年数は言えないだろうが、よくもっていると思う。でも流石に新調せねばなと感じたのは、先程ウイルスバスターをダウンロードした際にMeには最早使えずXPへと適合基準が移行しているという驚愕の警告文が現われたのだ。冬の賞与でとは思うが、alas、既に使途目白押しのことよ。
大惨事
●筒井康隆著『虚航船団の逆襲』(中公文庫)を読了。
「ただし、わかりやすくなった最近の吉本隆明の著作の中でもいちばんわかりやすい筒井康隆批判の部分が、ふだんから筒井康隆を嫌っている教育関係者の手によって、いかにもこれこそ真実と言わんばかりに、五十八年度共通一次の模擬試験に出題されたりするノンフィクション的現実は少くとも小生にとって大迷惑なのである。」(P175「ノンフィクション・ゲーム」より)
ウケた。
或るプロジェクトの決起集会が神保町にて催され参席。他社とのディスカッションや今後のスケジュール確認等等をした後、立食パーティーへ雪崩込む。ビールを注ぎ名刺を交換しリゾットを掬い名刺を交換し肉を切り名刺を交換し名刺を交換しサラダを頬張り。そのうち右手で皿を持ちながら左手で要人と名刺を交換する芸当を身に付けており、「ビジネス」もここまで来ると「愉しい」。
あれよあれよと宴は盛り、予め参席者代表挨拶に決まっていたN氏が都合良くも咽喉を痛め急遽辞退、そして不条理にも急遽代役に僕。50名程度を前に呂律の回らぬ意味不明を述べ、生まれ落ちて初めての一本締めの音頭を執る。近年稀に見る大惨事であった。
ランチ イン 馬場ンナ
●太田光著『パラレルな世紀への跳躍』(集英社文庫)を読了。
「我々はテロに屈してはいけないと言いながら、相手には暴力に屈する事を強いているのではないだろうか。」(P155「毅然」より)
太田光の筆致は個人的に合わないけれども、太田光という男は好きだ。
Kさんと高田馬場にある韓国料理屋「豚キ」でランチ。
僕にとって「ランチ」と言えばJUDY AND MARYのアルバム『POP LIFE』に収録の「ランチ イン サバンナ」である。
「ランチ」という言葉を読んだり、書いたり、聞いたり、発したりすると決まってどこからともなくこの曲の陽気なイントロがズンズン響いて来て、小鳥達は舞い魚達は泳ぎ出す。
Kさんとのランチ後は勿論、機関銃リズムであたし仕事に励んだの☆
ワチ君は欠席
●I.ウォーラーステイン著『史的システムとしての資本主義』(川北稔訳、岩波現代選書)を読了。
世界システム論への架橋。資本主義とその周辺主義(普遍主義・進歩主義)に就き突っ込んで考察する為には有益。
小田原は「くるま家」にてO君、O君夫人のNさん、Iッシー、Mさんと宴遊。
久保田(百寿)を呑み、鰆の刺身を喰らう。妊婦であるNさんのお腹は既にデビューするべき臨戦態勢の生命を宿しており早くて今月、予定は来月とのことだ。良人のあの頼もしき包容力でさぞかしベイブもNさんも安心して出産に臨めるであろうし、そう祈る。Iッシーは愛知で塾の講師をしており間も無く塾長に成るとか。不得要領で決して頼もしくも何とも無かった彼だが、一本気で熱い教育への思いが認められたのだろう。愉しい酒が呑めました。朝まで行っちゃいました。
入れ子構造
●筒井康隆著『驚愕の曠野』(河出書房新社)を読了。
これまで子供らにある本を読み聞かせて来たおねえさんのMCから始まる。「第332巻」から我々が読まされることになるのはこの為だ。つまり我々読者はこの物語に途中参加をする格好となる。私は「読了」と書いたが、この物語は正確には読了をすることが出来ない。させてもらえない。我々もまたすっぽりと物語の中へ否応無く組込まれてしまっていることに読後気付くのだ。
昔、ドリフだったか、プレゼントの箱を開けると一回り小さなプレゼントの箱、これを開けると再びプレゼントの箱、そしてまた箱と、箱を開ければ開けるほど箱は幾重にも内包されていて、元々の巨大なプレゼントの箱が次第に小箱と成って行き、結局は卵サイズの箱へ辿り着いてしまうという幼時の私には衝撃的なコントがあった。
こうした様態を「入れ子<入籠>」(イレコ)と言うのを知ったのはそれからだいぶ後に成ってのことだ。
半ば強引に物語に食べられ(包摂され)、図らずもこの入れ子の外枠と成ってしまう奇妙な感覚。怖ろしくも爽快であった。
「まあな」と諒
●富岡多恵子・西部邁『大衆論』(草思社)を読了。
「だから、僕は大衆論を軽はずみにやっていると、普通の人びとは愚劣だというふうなことに、どうも一直線に行きがちなところがある。僕も大衆礼賛に抗しようと思うあまり、そう思われても仕方ないような表現もしていますけれども、でも、コモンマンの偉大さは僕なりに認めているんです。」(P115西部氏の発言より)
練馬駅構内のドトールでココアを飲んでいたら、隣席に30代くらいの同僚と思しき男2人が来た。営業のやりとりが始まり、どうやらタバコの営業員らしい。禁煙席に坐っている。タバコの営業なのに、禁煙者か。ブレンドを干して出て行った。一瞬の違和感、しかし、いや、杖を使わぬ者が杖を売る、保険嫌いの保険屋、EDの媚薬売り、など考えていたら「まあな」と諒。
満員作法‐あまりにテトリス的な
●酒見賢一著『墨攻』(新潮社)を読了。
中島敦記念賞受賞作。
特異な思想集団、墨家をモチーフとする中国小説。頁数は短い割りに密度は濃く、ぐいぐい読ませる求心性を持った作品。「非攻」の思想から、大軍の攻撃にあの手この手で繰り出される防御のカラクリ。時同じくして上映されている映画も賞鑑したが、本の方が数百倍面白い。
地方都市の満員電車事情に就いては、露知らない。だから首都圏に話しを限定して言えば、東京から離れれば離れるほど満員電車は乗りにくくなる。なぜだろうかと考えていたら、先日その答えを発見した。すし詰め電車に乗る際に東京人は、要領良くテキパキと「テトリス」の1ピースに成る。状況に則してスッと空隙を埋める。乗り込んでしまった時に自分が不正解の格好であっても、慌てず迅速に最良なピースに化ける。それがどうだろう、地方の支線で思わぬ満員電車状態が発生した時の地方人の身のこなしの悪さと言ったら。「そうじゃない」格好で乗り込み、車内の中ほどへの進み方も不得手で、無意味な空隙は出来放題。要は慣れの問題。フット・ワークだ。
東京人で満杯の退勤ラッシュ。スルスルと車内に人が満ちて行き、赤の他人同士がもたれ合い絡まり合い大きな一つのブロックと成る。そんな中、うっかり空いた右端に長身のサラリーマンがストンと乗り込んだら、23人が一遍に消えてね、ポイント稼げるぜ、やっぱ東京は。
けちょんけちょん
以前読んだ医学博士の宮城音弥の手になる『タバコ‐愛煙・嫌煙』(講談社現代新書)は興味深い本だった。かつて別のところでも軽く触れたが、やはり今だにこの箇所はスモーカーにとって重要ゆえ引用する。
「彼らによると、喫煙者は非喫煙者と比較すると、転職することが多い。結婚を何度もする。つまり離婚することも多い。交通事故にあいやすい。年少の喫煙者については、学校の成績がよくないことが多く、目上の者に反抗しやすく、性的に早熟で酒をのむといった性格がみられるが、これは、内向性のものには少ない傾向である。」(P105「喫煙者の性格特性」より)
喫煙者が、ほんとにどうしようもない奴等であることがよく解かる資料の一つである。
Aさんの赤ペン
●香山リカ著『若者の法則』(岩波新書)を読了。
「先輩をなんだと思っているんだ、と若者に対して怒りをあらわにしている大人がいる。その人たちを失望させるようだが、はっきり言って、若者は先輩や上司をなんとも思っていない。というか、ただ年齢や地位が上だからというだけで先輩や上司に一目置く、敬意を払うことはないのだ。あくまで、その人自身がどういう人かが、問題。」(P196「先輩・上司」より)
本書は要町のブック・オフで購入したものだが、相当な量の書き込み・傍線・傍点があった。ゲジゲジな文字、リハビリテーションな傍線、耳クソな傍点。汚い。読みづらい。遣るまい遣るまいと思えば思うほど、意識と視線はお散歩をしてしまう。152頁の書き込みは赤ペンで傍線と矢印と感想。「身に詰まされるなぁ」という言葉が頁の余白に踊って居る。彼もしくは彼女(以下Aさん)が、身に詰まされた著者の文章とはどんなものなのかと読み進めるとこうある。
「新天地に旅立とうとしないで自宅にいつまでもとどまる若者が増えているのも、単に不況の影響ばかりではないだろう。」
一瞬、うわっと思って本を放りたくなったが、ちょっと待てよ、気持ちは悪かったがこれが一つの社会的事実なのだとも思った。Aさんの生活を想像してみた。或る日、思い切って60日ぶりに外に出てみて、右に左にキョロキョロしながらやっと辿り着いた書店で見つけた1冊の本。「若者の法則」。若者に法則なんてあるのかなぁ、色んな生き方や価値観を持つはずの若者に法則なんて、面白そうだなぁ、読み易そうだし久しぶりに本でも読んでみようかなぁ。そんなAさんは、その日を丸々読書に費やし、著者の随想と暗い部屋で対話をしたのかもしれない。そして真剣な眼差しで思わず走り書きしてしまったのが、この少し照れ臭そうな心からの短い感慨へと結晶したのかも知れない。
Aさんのこの文章は図らずも僕の読書を立ち止まらせた。Aさん、あなたの文字はひどく汚い。箇所箇所の書き込みや傍線の付け所からAさんのモヤっとしたアウトラインを描けられるばかりだが、どれも何だか気持ち悪いし目障りだ(購入前に確認しなかった僕の責任もある)。ただ、そこかしこに激しい対話の痕跡が光っていることもまた事実で、Aさんのカビ臭そうな部屋が迫って来るようだ。
Aさんが「身に詰まされた」著者の文章以上に、僕は「身に詰まされるなぁ」とメモしたこの引っかき傷のようなAさんの照れた魂にこそ「身に詰まされたなぁ」。
命に値段を
●シンムラ・カツノリ著『生命保険業界にモノ申す!300万円節約術‐アマチュア営業員にだまされるな』(新風舎)を読了。
医療保険は可能な限り若い内に「終身タイプ」で入っておいた方がお得である、と氏は仰る。しかしどうでもよいが、校正が甘甘。誤記が多過ぎて読み辛いのなんの。ここまで激しいと著者の説得力の強弱をも左右してしまいかねないので注意が必要ですよ。
生命保険に加入した。正確に言えば生命保険商品を購入した。死亡保障の薄っぺらさは、目下の己の甲斐性の無さを思いっ切り反映しているが、そのうち買増せば良い話しだ。あとは各種特約を付保させて調えた。担当者は知人の知人。こうした間柄だと、するすると付合い契約に堕しがちだが、ここは大人ぶりを、ますらをぶりを発揮させ牽制する。本日より、己の魂に値段が付いたという訳。駄菓子屋でも買えそうなくらいの値段が。ま、至極相応とも言える。当たり付きではないけれども。
順法闘争とは
ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編『ものがたり戦後労働運動史Ⅲ‐総評の出発から労闘ストへ』(第一書林)から僕は「順法闘争」について学んだのだった。
「労働争議の戦術のひとつ。法律や規則の基準どおりそのまま作業を実行することによって、合法的に生産その他の業務を渋滞させることをいう。たとえば、ホームの乗客の安全を充分確認したのちに、電車のドアの開閉をおこなう。東京の山手線などでひとつの駅で20秒~30秒の遅延が重なると、電車の運行に大幅な乱れがでる。ストライキを回避しつつ、結果的に業務を停滞させることで相手に打撃を加えることができる。一種の怠業行為(サボタージュ)で、有効な戦術でもある。」(P33より)
とても嫌味で素晴らしくウザい、とことん小賢しく、しかしある種爽快な戦術であると思う。日々実行しようしようと心掛けてはいるのだが、なかなかやはり難しいといった現状と白眼視とこの僕の小心性。まだまだだな。
続・雑記する
●島村洋子著『へるもんじゃなし』(双葉文庫)を読了する。
「しかし男のやきもちというのはわかりにくいんだわ。「で、何食べたの?」とか「彼はきっといいとこ連れて行ってくれただろ」とか、絶対に素直に感情を表さない。なんか複雑でわかりにくくてかわいくないんだ、これが。」(P116より)
氏によると男性の三大悪癖に、「浮気」「優柔不断」「独占欲」を挙げている。
新横浜はラーメン博物館にて昼食をとったのち、IKEAへ行き家具・調度の大量購入。中量購入か。しかしこれはポトラッチでもバタイユ的な「呪われた部分」あるいは「蕩尽」でもヴェブレン的な「顕示的消費」でもなく、必要に駆られての消費である。金は出る出る、逃げられない。出る金に追われ、袋小路だ。どっこい、この袋小路、なかなかスリリングで面白くはあるのだ。
男とサイケ
●呉智英著『犬儒派だもの‐Nun,ich bin doch Kyniker』(双葉社)を読了。
「スノビッシュな教養には一切目を向けず、功利的な実学と刹那的な快楽しか求めない民衆なるものが存在するのなら、あるいは民主主義はうまくゆくかもしれない。「本物の無教養」はそんなにもたくましい。しかし、民衆は、スノビッシュな教養に実はあこがれているのである。」(P140より)
従って、スノビッシュな教養を求める我々は氏の本を嬉々として読む。戦闘的異端思想家の最上エッセイ集。
思い切って真実を告白すると、木曜金曜の両日、夜な夜な僕は男の子(かなりの美少年であった)を部屋に連れ込み、快楽にふけった。言葉は要らなかった。ただ、静寂のなか目を閉じ唇をつけ、舌で転がし、むんむんと馥郁たる淫靡なイカの匂いに部屋は満たされた。事は1時間と少し。1時間と少ししかモたなかったのが惜しかった。もっとやりたかったが、肉体にも限界がある。自然と背徳や罪悪感は感じない。とても優しくて、時に従順で時につれない、しかし絶対的に透明感のある彼とは2日限りではあったが、情操の昂ぶるサイケデリックなひとときだった。激しさを抑制しながら静かに、だが血液は奔流の勢いで全身を駆け巡った。終わってからの一服。デスクの上にこぼれた3滴ほどの彼をティッシュで拭いて赤ら顔でおやすみを言った。
熊本の清酒「美少年」を飲む。つまみはサキイカ。
ボイラー故障に人として
●杉田敦著『権力』(岩波書店)を読了。
「権力を一方的に行使されているという考え方をやめ、権力過程の当事者であるという意識を持った時に、すなわち、責任者はどこか遠くにいるのではなく、今ここにいると気づいた時に、権力のあり方を変えるための一歩がふみ出されるのである。」(P102より)
権力に対する著者の粘り強い論考の努力が生々しく現出している良書。
寮の銭湯はボイラー焚き。このボイラーが故障して、湯が出ない。湯が出ぬのでもう銭湯とは言えぬ。プール。こんな設備上の不備にもかかわらず、次の給与でしっかり寮費が給与引き去りにされていたとしたらばこれはもう何らかの何かをするしかないでしょう寮生として男として人として大脳が有るのだから。
金魚死なせた大昔
●池上彰著『経済のことよくわからないまま社会人になってしまった人へ』(海竜社)を読了。
経済のことよくわからないまま社会人になってしまった人代表の私が読まぬ訳がない。目から目ヤニと一緒にウロコがボロボロでとっても為になりました。
●冨永昌敬監督『シャーリー・テンプル・ジャポン』(紀伊國屋書店)を賞鑑する。
小3夜店で金魚掬い。ティッシュな網、一瞬で破れ人生の厳しさ知る。おやじ本物の網で2匹くれた。家にあったガラス容器で飼う。朝学校行く時ゴキブリ見つけゴキブリホイホイ、スプレー噴霧でゴキブリ死なす。部屋に充満したホイホイの粒子、金魚に危険じゃないだろか。ガラス容器に藁半紙でフタした。帰って来たら金魚浮いてた死んでた。小3の幼い善意は逆効果。人生の難しさ知る。裏庭に指で穴掘り葬った。自分を責めた。泣く代わり爪にはさまった泥あらった。くちゃくちゃでぶよぶよの幼い後悔あそび来た。
音大ギャルの音楽論
●高橋哲哉著『反・哲学入門』(白澤社)を読了。
「戦死が感謝と敬意の対象である限りにおいて、それは肯定され、美化される。それによって新たな戦争へ人々を動員するわけです。」(P115~116「サクリファイス(犠牲)の論理」より)
池袋のドトール・コーヒー。白ギャル2人のトークがやけに耳障りでコーヒーも味わえずにイライラ。もう本も畳んで、この際、積極的に聞いてやろうと意気込んでみたら、凄い。セリアリズムがどうした、シュトックハウゼンがどうした、ナチスの音楽選別論がどうした、おれ、どうした。背もたれに悠々と腰掛け、味わえてるコーヒー。イライラが束の間のヒールに化け、白ギャルの優美な鼻歌でなぞるバッハの旋律。終わらないパイプ・オルガンに身体を泳がせながら、1杯5000円のコーヒーと昼を過ごした。
ビル風/散り際の勇姿
●小峰隆夫編『ビジュアル 日本経済の基本』(日本経済新聞社)を読了。
経済の「経」のイトヘンまで追い付く。
駅舎と平行に立ち並ぶビル。駅から一歩出ると横殴りとは、これだ。猛雨と狂風をこれでもか、と浴びることとなる。従って混み混みの駅舎、皆、順番待ちをしているのだ。ためらいと焦り。次の歩が恐怖により出ない。意を決して果敢に飛び込んだ者達のシカバネを目の当たりにしているのだから。女子高生のスカートは逆様となり、主婦の握る買物籠は容易に風下に飛んで行き、リーマンのスーツは一瞬でビショ濡れ。傘は全てあっという間に骨だけとなった。高速で右方にスッ飛んで行くビニ傘のビニ達。はじめから傘をささぬ者もいたが、あれは賢い。日常の地獄。地上の着衣水泳。近づいて来る順番。日露戦争の大陸に於ける兵卒の気分はこんな感じだったのかも知れぬ。心の準備は出来た。俺の番だ。
ある史書によると、それはそれは勇猛果敢なる素晴らしい最期だったと言われている。即刻モゲたビニ傘を、それでも執念深く、いつまでもいつまでも決して離さなかったと言われている。
筆禍
●森宮康著『ビジュアル 保険の基本』(日本経済新聞社)を読了。
保険の「保」のニンベンまで追い付く。
●アレハンドロ・アグレスティ監督『イルマーレ』(Warner Bros. Entertainment Inc)を賞鑑する。
待ちまくって、愛。
直木賞作家、坂東眞砂子の手になるエッセーが、産まれたばかりの仔猫を崖から放り投げるという内容だったもんで、ポリネシア政府が告発する構えらしい。文章によってこうむる災難のことを「筆禍(ヒッカ)」と言って、しゃべったことによってこうむる災難のことを「舌禍(ゼッカ)」と言う。禍は「わざわい」。舌禍など日常茶飯事だから面白くない。例えば政治家、例えばカップルがよくやる。でも筆禍となると面白い。どんな答弁をするのか楽しみ。弁明の質の深浅がイコールこの作家の価値。でも、めんどい事になっちゃいましたね。
無題
●茨木のり子著『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)を読了。
「つづまるところ詩歌は、一人の人間の喜怒哀楽の表出にすぎないと思うのですが、日本の詩歌はこれまで「哀」において多くの傑作を生んできました。「喜」や「楽」にも見るべきものがあります。ただ「怒」の部分が非常に弱く、外国の詩にくらべると、そこがどうも日本の詩歌のアキレス腱ではあるまいか、というのが私の考えです。」(P151より)
限りなく豊かな拡がりを持つ著者の感性と知性と言葉。所所で散見される著者の反権力、反国家の思想も読んでいて気持ちが良い。ゆらーりゆらりと書き連ねている中、国家や戦争の話題となると俄然興奮し脱線する筆の荒さ。柔らかな詩人の眼差しと、キリの様に鋭い思索家の批判精神。半年前に自宅で静かに誰にも「倚りかからず」逝ったこの詩人によるあたたかな詩への導き。
於HARAZYUKU
●川上弘美著『蛇を踏む』(文春文庫)を読了。
「引出しを開けるとノートやペンの間から小さな蛇が何匹も這いだした。這いだして私の腕から首をのぼり耳の中に入ってくる。入られて、飛び上がった。痛くはないのだが、外耳道に入り込んだ途端に蛇たちは液体に変わってそのまま奥に流れこむ。冷たい。まだ入り込んでいない蛇を阻止しようとして首を強く左右に振った。振ると、耳の奥で水に変わった蛇が粘稠性を増しながら内耳に向かう。ねばねばとした水が三半規管のあたりを満たす。耳小骨を取り巻く。耳が蛇でいっぱいになり何も聞こえなくなるが、耳の中を粘りながら落ちていく蛇の微かな音だけはいつまでもいつまでも鳴り響く。」(P49より)
第115回芥川賞受賞の表題作を含む全3篇。限りなく文学している。
原宿を歩き、原宿でチキンプレートを喰い、原宿で買い物をし、原宿で約5時間、生きた。
引用でやっつけ
●加藤秀俊著『独学のすすめ‐現代教育考』(文藝春秋)を読了。
「しかし、実業というのも、じつのところは、国家の支配体制とぴったりむすびついているわけだから、結局のところ、大学を卒業して就職すれば、どこに行っても、いわゆる「体制」がわの一員になる、という公算がたかいのである。そのことのよしあしをうんぬんしたいのではない。わたしが指摘しておきたいのは、学校というものが、おしなべて、直接、あるいは間接に国家の支配原理とかさなりあって存在しているという事実なのである。その事実は、なかなかうごかしにくい。ひとことでいうなら、学校というものは、おしなべて保守的な性質のものなのだ。」(P226~227「学校の意味」より)
だ、そうなのである。
G.W
●大内兵衛、茅誠司他『私の読書法』(岩波新書)を読了。
1950年代に活躍していた知識人の読書に関する随筆集。杉浦明平、吉田洋一、開高健、松田道雄らのエッセーが秀逸。また、最後を飾る円地文子の文章の締め括り方が自分の心象風景を代弁してくれているようで、物憂く切ない。
「この頃は自分の書くことに時間をとられますので、ゆっくり読書する暇がなく、あれも読もう、これも読もうと思いながら、机のまわりによまない本のふえてゆくのが残念です。」(P199「濫読」より)
G.Wか。もうそんな季節なんですね。今年こそはヨーロッパ一周旅行をするぞ。ドイツでビール、イタリアでピッツァ、スペインでカルメン、フランスで哲学、バチカンで市国、ノルウェイで森、イギリスでロック、ドナウ川でキャンプ、ギリシアで本、ブルガリア・ヨーグルト!
G.Wか。我ハ、関セズ。
書類開封
●小谷野敦著『バカのための読書術』(ちくま新書)を読了。
「ただ念のため言っておくが、私は「バカの味方」なわけではない。繰り返しになるが、「バカ」といってもいろいろあって、私は「難解な哲学などがわからない」という人にはかなり同情を寄せているし、自分自身そういうバカである可能性も否定できない。けれど、私は「無知」とか「怠惰」に対しては極めて厳しい。「頭が悪い」のを克服するのは難しいけれど、無知は努力によって克服できるし、それをしようとしない「怠惰」は、犯罪的だと考えているからである。私はむしろ、無知なままに生きる者たちを嫌悪していると言ってもいいくらいだ。」(P12「序言」より)
当言、性感帯。
重要な書類が届いた。
MIXING!
●小此木啓吾著『対象喪失‐悲しむということ』(中公新書)を読了。
フロイト後期の「悲哀の仕事」を土台に、自分への志向性をかつて持っていたあらゆる「対象」(親、友人、恋人、自ら、環境、記憶、名声、無限の広義性を帯びる)が徐々に遠のいて行く時の、そして遠のき切った(喪失した)後の心の働きに就き丁寧に考え抜かれた論文。
気紛れM.Mとは約1年ぶり、とってもホッペがツヤツヤしてたのは気の所為かな、で、謎の海男のお話お話。その後、I.M、N.Sとビリヤード&ダーツ、ダーツはカウント・アップとクリケット、クリケットの意味が若干判らぬ。整腸にバナナ、ミルク、蜂蜜でバナナ・ジュース、もうこれは余りにデリシャス。
じっぽ
●李静和『つぶやきの政治思想‐求められるまなざし・かなしみへの、そして秘められたものへの』(青土社)を読了。
「体験の一致性とは身体となった、肉声となった言語のことだけれども、そんなものは不可能だとはじめからあきらめてしまうことが「かったるさ」をうむ。かかわりの程度の問題。もう分かっているということは、時間の不一致性、時間が一致していないということ。それに対するいらだちとせつなさ。記憶に対する距離、存在の距離。相手との距離。」(「つぶやきの政治思想」より)
ZIPPOをまた買って見たけれど、いつもみたいにこれもどうせ1週間も経てば紛失すること必定也。
P.S そんなに似てんだったら、いつか普通の客に成りすまして訪れてみたいものだよ、いっしー。
ヲタク考
●開高健著『風に訊け』(集英社文庫)を読了。
「哲学は、理性で書かれた詩である。あれは詩なんだ。論理と思ってはいけない。詩なんだよ。もう一歩つっこんでいうと、詩の文体で書かれた心の数学である。」(「哲学。」P33より)
「人間をタイプで分類するのはひとつの知恵ではあるけれども、ある型の中へ人間を押しこめると、その瞬間から別のものがそこから逃げ出していく。押しこめて満足していられる無邪気な人はそれでいいけれども、そうすると逃げ出した部分に、やがて復讐されるであろう。」(「過去型と未来型。」P319より)
「ともかく、あまり気にせんこっちゃ。クドクドうるさいこという奴は、相手にしなければいいのよ。おわかりか?」(「ガンナッツ。」P326より)
尊崇する氏がかつて「週刊プレイボーイ」誌上で繰り広げた人生相談。実に155の購読者からの質問に対して、時に熱っぽく、時に適当に切返している。こうした類の人生相談は、単なる気障(キザ)な箴言集として堕落しがちだが、豊饒な知識とブッキラ棒により読物として完璧な人生相談となっている。緊張と弛緩の応答集。
●吉本隆明著『わが「転向」』(文春文庫)所収、大塚英志による「解説‐「明るさ」は敵か?」を読了。
悲しいかな今流行の「オタク文化」なるものに触れたことがない。と、自分では思っていたんだけど先日ある女子から「本とか漫画ばっか読んでるんなんてオタクじゃん」って言われちょっと考えた。本とか漫画ばっか読んでるだけでオタクの特権が自動的に付与されてしまう簡単で嬉しい時代となってしまったのか、どうか。少なくともこの女の捉えるオタク像には相当の歪みがあるにしても、これを「歪み」として肩透かししてしまうのも、これまたどうか。アキバ常連、アニメ・フリーク、必ずリュック、シャツはズボンに全入れ、PCとフィギュア、萌え、キター。「オタク」の原型を狭隘な世界へ囲い込むこと、これはどうか。あれ、いいのかな。どうだろう。ただ、本や漫画を読む文化とオタク文化とは、恐らく根底にて質そのものが違っているとは、自信は無いが思ってしまう。前者の文化に付着する読書の姿勢・環境、後者の文化に付いてまわる独り遊びのそれら、恰好と趣きは、近似しているけれども、はてさて、どうだろう。両文化に全く馴染みの無い者が、そうした異質の世界を一まとめにして「未知の世界(文化)」への怖れ、侮蔑、キモい感を表明しているだけならば、例えばサルトルが言ったように、未知のものと不気味なものとは連繋しているといった論考だけでササッと片付けられるけれど、これはどうでしょうか。この間、AMの某ラジオ・パーソナリティが、何かに没頭、何かを極めている人は何らかのオタク、みたいなことを言っていたけれど、こうした可なりリベラルなオタクの解釈法も一つの発想としてはあるんだろうね、どうよこれは。ま、でもここらで強引にまとめちゃうと、昨今劇的に市民権を得て来た「オタク」という文化形態が、現代の猥雑な流通網(物理的にも観念的にも)を満たし流れて行く途上で、概念そのものが多義的・多元的(プルーラル)なものへと化け続けているのではないか、ということ。ほら、無難で健康な結論が出ましたよ、これ、どうさ。わかんねーや。
アタラクシアとアパテイア
●石畑良太郎・佐野稔編『現代の社会政策‐新版』(有斐閣双書)を読了。
やっぱ、ほら、俺だって人間じゃん?そりゃ色々、欲望はあるよ。金がもっと欲しい、名誉だって地位だって、女だって、時間なんか止まっちゃってもっともっと好きなこと出来ればいいと思うのが普通じゃん。あ、金が欲しいで思い出したけど、こないだの冬のボーナスっつったらなかったよ。えっ?って感じ。お前、いくらくらい貰った?まじで!?それ、貰い過ぎだろ!なに、それ、貯めんの。何か買うの。あー、そう。服って、お前、服ばっか買ってね?服ばっか買ってたって、基礎がなってないからダメだよ。基礎を怠慢にしてるといずれバレちゃうから。今話題のアネハ的なことになっちゃうよ。何買うの。へー、お前って、チョイチョイお洒落にも気、遣うよな。うざいね。うん。まじでうざい。俺なんか服すら買えてないよ。仕事、仕事、仕事ですよ。買いに行く気はあるけど、身体がさ。って、何の話ししてたっけ。あそうそう、欲望だよ。だから、なんつーの、外から来る色んな刺激?そーゆーのに、振り回されずに生きてーよな。お前知ってる?こないだ本読んだんだけど、ギリシアの哲学にさ、快楽だけを追求する何とか派とさ、快楽を、快楽を嫌う、快楽を抑制する派、ストイック、ストイック派っていう二つの派閥があってね、でもどっちもさ、最終的な目標は面白いことに一緒でさ、外からの刺戟に流されないぞ、っていうのが共通するモットーだったわけ。意味わかる?お前、これ面白くね?パット見、敵同士みたいなのに、求めることは一緒なんだよ。深ぇよ。深ぇべ。俺、何気に勉強してんの。お前、ちょっと難しいべ。え?エピコース?エピクロス?そう、エピクロス。って何それ。
「青」は進め「赤」は停まれ
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●松浪信三郎著『哲学以前の哲学』(岩波新書)を読了。
これで岩波新書より刊行された氏の著作は全て読んだことになる。全ページ上から下までビッシリ余白無き1962年第1刷発行『実存主義』、最も読み易く、従って最もメジャーな1983年発行『死の思索』、そしてフォントはでかいが限りなく抽象度が高い1988年発行の『哲学以前の哲学』。これら3部作(扱う内容はそれぞれ異なるけど)を通読して抱く感想、2点。ひとつは見ての通り青版・黄版・赤版と、見事にサイクル・ヒットをかましておられること。いまひとつは時間の経過に反比例しながらグングン、もう目を見張るくらいつまらなくなっていること。『実存主義』におけるエネルギッシュで鋭い分析は内容の濃さと重量を忘れさせて呉れるほど素晴らしかったのに。ある哲学者の発展と堕落のプロセスがこの3冊に凝縮されていることを思えば、上中下巻のドラマであると言っていい。
新発売のカフェオレを飲みに久しぶりに読書がてらミスドへ行ったところ店内全員カフェオレを飲んでいたのでさすがにビビッた、しかも皆当然の様に単品で。寿司屋で全員寿司を喰っているように、ラーメン屋で皆ラーメンをすすっているがごとくの自然体でだよ。
あの頃は若かりき
●モーパッサン著『脂肪のかたまり』(高山鉄男訳、岩波文庫)を読了。
第3項排除とエゴイズムの緊密性。
「象の話し」
ぼくは、象の、ハナコさん、インディラさん、トンキーさんが、人間が起こした戦争なのに、みんな殺されてしまったことがくやしくて、悲しくなりました。
やせてしわだらけのトンキーさん一匹、園丁のおじさんに、逆立ちの芸当をして、芋が欲しいとねだっても死んでしまいました。
戦争は、むりやり象を殺してしまいました。
ぼくは、戦争なんてしては、いけないのだと思います。
戦争は、動物園のみんなを殺して、人間も殺してしまう事です。
ぼくは、人間が起こした、戦争でむりやり殺されたくありません。
本棚の整理をしていたら、小4の時の「作文綴」と題したファイルが見つかり、先程来パラパラと繰っている。全ての作文には担任だった朝倉久美先生の手になる大げさな花丸と短い感懐が赤ペンで付されている。懐かしくもあり、書くことも別段無いので調子に乗って、もう一つ、今度は詩を転記してみる。
「心配」
日本は平成三年
地球は一九九一年
地球の上で戦争がおこった
太陽や月や星は心配している
この少年は小4の時に既にして反戦主義者であったようだ。他にも何かと「戦争」へのアンチ・テーゼを幼稚な丸字體でせっせと書き連ねている。少し突っ込んで分析を進めてみるに、ここに掲げた両作に共通するものは主題の同一性の他に「視点」の客観性、他律性をはらんでもいる。自らの見た「戦争」を主観的に批評・非難するのではなく、「象」の戦死と「天体」からの俯瞰を、即ち、視座を客体へ転じながら論じている。この事が意味するのは…。
っていう突っ込んだ批評や分析がいやらしくも大仰に試みられるほどにボクは大人に成ってしまった訳だが、臆面も無く純粋に「園長」を「園丁」と書き、句読点の付け所がグダグダのあの頃のボクを軽く憧れ、当時を夢見ると不思議な哀切に包まれるのはどうしてだろう。
ほくそ笑んだり、いぶかったりしながら、今、部分部分記憶に無いあの頃の他者の様な自分を眺めている。
観葉植物
●養老孟司著『バカの壁』(新潮新書)を読了。
●養老孟司著『死の壁』(新潮新書)を読了。
新書からベストセラーが出るのは、皆無ではないが珍しい。
俗的な知的好奇心や知的満足を得る為の本。著者の漫談を編集した体裁の故、どの議論も浅い。
爆発的に売れた前者より後者の方がマニアックで吉。
自分の嗜好じゃないけど、この部屋、フル・オブ・観葉植物。
シャコバサボテン、ライム・ポトス、ポトス・マーブルクィーン、セトス、胡蝶蘭、コーヒーの木(アラビカ種)、ハマナレイクドリーム、この他もろもろ名も知らぬ植物群が所狭しと濡れた緑を放射状に主張している。
ここまで来ると逆に観られてるようで、むかつく。
って書いておいて、改めていま観ると、ちょっと可愛い。
Slavery
●今村仁司著『近代の労働観』(岩波新書)を読了。
「古代であれ現代であれ、労働は基本的には、自由な行為ではなくて、隷属的な行為である。」(P123)
人の話をよく聞き、定期テストを頑張って、学校をそこそこで卒業し、友達と仲良く、恋人と平和に、スポーツに汗を流し、映画に涙し、たまには酒を酌み交わし、海岸線をドライブしたり、旅行に胸躍らせて、買い物でストレスを発散したところで、例えばバスタブの栓を抜いた時、大量の白湯が排水穴へ残らず吸い込まれて行くように僕らは結局、奴隷と成る。その哀れな自分を直視しない為に、僕らは日々の労苦の中に小さくても良い、わずかな喜びや生き甲斐、存在の意味を創り出す。上の者から叱られることで昨日より今日、今日より明日と成長し、気付けばいつしか下の者を指南している。自分の経験と蓄積して来た知識でもって労役に一層励み、若かった頃の自分とは比較にならないほど大きくなった自分に気付く。裸で砂を運び、レンガを敷き詰め、やがて鞭を振るい、己の握力に酔う。労働は、人間が成長する為の契機であり、存在の意味と喜びの源泉である、という山のような勘違いをしながら僕らは生きて行く。幸福に生きて行く。奴隷は泣き笑いして生きて行く。
愛染の現場
●日高敏隆著『動物にとって社会とはなにか』(講談社学術文庫)を読了。
コンラート・ローレンツ著『攻撃―悪の自然誌』(みすず書房)やリチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)などの翻訳者としても知られ、動物行動学の領域に多大な貢献を果たした著者による比較社会論。ここでの比較の両項は、言わずもがな動物と人間との相である。一見不可解で無意味に見える生物の行動(条件反射としてのそれも含む)の内にも、合理的な論理と種個体群保護の意義があるとする提言など、その視座は一つの構造主義的テーゼが下地になっているとも解せられる。人文・自然両科学に学究的ウェイトをなるべく等配分しようと努める自分にとっては有益な書だった。
とある塗装工場事務所へ、とある機器の交換工事をするべく訪れた時のこと。
事務所内で煙草をふかすアラブ系の出稼ぎ労働者は持った受話器を放さない、午前00:10。
突然の侵入者(自分)と受話器の向こう側のさっきからの誰かに、注意をなるべく等配分しようと努める彼にとっては困難な事態だった。でも彼は優しいから、優しい表情で「いいよ、何でも勝手にやってもらって結構だよ、ぼくは、ほら、今電話中だからね」的なムードと状況を醸してくれる。で、早速、作業開始。したものの、自分は彼のシロップな愛のコトバに作業の手が急遽、鈍行となる。
「ダイジョウブ、・・・、・・・ウン、・・・ワカッテル。ダカラネィ、ボクハ・・・、ドンナバショカラデモヨルノ星ガミエルヨウニネィ、キミヲ、ミツメ・・テイル、イルヨゥ。ウ・・、ウン・・・、モゥ、カエルカラネィ・・・。アトデネィ・・・大丈夫ダカラネィ。ジャァネ、バイバイ。チュッ。」ガチャ。
アラブの男性は優しい。電話が終わってからも彼はその受話器を慈愛と赦しの視線でしばらく見詰めていた。
真っ直ぐな愛の場に偶然居合わせた自分は、彼を信じる。彼の人生は、ああ、あの人の為にあるんだな、と思った。
聞いていないフリをする自分は、まだ各停のペースで作業はあまりはかどらない。
「ゴメンナサイネィ、ゴクロサマデスネィ・・・」と思い出したかのように言ってくれた彼の浅黒い肌は、毎日、シンナーと汗に包まれていることだろうな。名も知らぬ厳しい戒具のような重たい工具を持ち運び、身体に決して良いとは言えないだろう塗料を塗布し続ける彼の筋肉は、しかし常に愛するあの人を想っているだろうな。カタコトの教科書みたいなカタコトで、それほど会心とは思えない比喩で精一杯の愛を紡ぎ出そうと奮闘する彼の口は少し震えていた。―錆び、汚れた工場のトタン屋根の上方でまたたく星としてのあの人へ。
そんなことをマッタリ考えていたら、ビスの差込口を間違えた。プラスドライバーに涙がもし一滴落ちたら、もうそのまま4・5滴落とし続けただろうな、と何となく思った。
彼の愛が、どうか星を包む青い天幕のまま生き続けますように。
作業、無事、完了。
翔舞のとき
●内田義彦著『日本資本主義の思想像』(岩波書店)を読了。
どうでもいいっちゃ、どうでもいいけど「むすんでひらいて」の作曲者が『社会契約論』や『人間不平等起源論』の著者、ジャン・ジャック・ルソーだったとは驚き(四・2 ルソーの「自然」と音楽―オペラ『村の占者』を中心に―)。
当書が幾重にも織り込んでくれた脳のシワのお陰で、事実、頭痛が激しい。
去る3月27日、去年に引き続き「湯河原温泉オレンジマラソン」に出走した。
5kmのコース。ランナーズ・ハイが訪れないままゴールするもんだから或る意味、きつきつ。中継地点には当然給水場があって、スポーツ・ドリンクが置いてある。走りながらカッコ良く左手でバシっとつかみ、ゴクっとやって、ポイっと捨てた時、ギャラリーのおばさんのシューズにブッかかる。タイム・ロス。結局去年のタイムを十数秒縮められただけの不本意な結果に終わったのでした。それからみんなでホテルのランチ・バイキングに行って、いろいろおいしいものを食べまちた。カレーとかお肉とかサラダとか茶碗蒸しとか、お腹一杯食べました。おいちかったです。
お兄さん、お姉さん、ありがとうございました。
それにしても最近、周囲から大きな知らせが届いて来る。変節だなぁと痛感する。
某一流化粧品会社へ就職した朋友は広島に飛ぶと聞いた。
某一流リゾート会社へ就職した朋友は三重に一昨日飛んだ。
苦労と努力の末、某一流アパレル会社へ内定が決まったとの嬉しい報告が教え子から届いた。
会社の同期は退社し、今では医療カルテのベンチャーで楽しく充実した毎日を送ってると聞いた。
お世話になった私塾の教室長からは結婚式の招待状が届くし、その塾で公私共に仲良くして来た二人の元・講師からも間も無く結婚報告のレターが届く。
以前共同生活させて貰ったジャジーな陶芸家のインターネット・ヒット件数も逓増の一途を辿っている。
みんな、動き出してるなぁ。
渓流の岩陰で、その流動のエネルギーを持て余すように滞流している者は誰か。
不動の美という開き直りに固着して、ドブの油膜にブクブクと浸かっている者は誰か。
動き出さねば。翔舞をせねば。













































